葛生学館は2年の修業年限で中学5年課程の履修を目指しました。
本校創立50周年記念誌に葛生学館の創生期を学ばれた方々の寄稿文が収録されています。寄稿文の多くが回想していることは、その頃は小学6年を卒業したら見習い奉公に出るのが一般で、小学校を終えさらにその上の教育を受けることは贅沢と考えられていたということです。葛生学館第1回卒業生の小曽戸浜吉氏は小学校卒業の同級生のうちで中学校に進んだ者は資産家の子弟2、3人であったと書いています。
尋常小学校6年を卒業して、その上の教育を受けるには中学校に進むか、あるいは高等小学校2年の課程を履修するかでした。佐野中学校に進むとすれば、葛生から通学することは無理ですから佐野に下宿しなければなりません。月謝から学用品さらに生活費までの費用負担は多額に上りました。上級の学校に憧憬を抱きながら、進路変更に甘んじた若者は少なくなかったと思います。創立者は地元葛生に葛生学館を開いて就学者の費用負担を軽減し、向学心に燃える若者に修学の機会を広げたのです。月謝は1ヶ月50銭で、納入月数は年間11ヶ月でした。
明治42年4月10日付けで施行された私立葛生学館規則があります。規則第2条は次のように謳っています。「本館は地方青年子弟の中学に入るの資力なき者、又は事情の許さざる者のために品性を陶冶し、須要なる普通学を教授するを目的とす」。月謝の安さは破格であり、2年で中学校5年の課程を履修することができる葛生学館の出現は、近郷の若者に新鮮な期待を抱かせたに違いありません。
創立者は学校設立に奔走しました。栃木県に何度も足を運び、文部省にも事情を説明しましたが、創立者が思い描く学校はなかなか当局の理解を得るには至りませんでした。学館の設置は難航します。2年で中学5年の課程を修了する学校は前例がないからというのが当局が認可を渋る理由でした。しかし、好学の士に広く門戸を開き、地方文化の向上に力を尽くしたいという創立者の願いは強く、揺るぎないものでした。創立者は足を棒にして陳情を繰り返しました。「天下有用の人材を養成するのに、規則にのみとらわれるとは何事かと言って担当官を誹謗し、あらん限りの横車を押し通して学館設置を嘆願した。当局も遂には呆れ返って特例で認可になった」と創立者自身が語っています。
葛生学館の設立は明治43年3月19日付けで認可されました。次は認可状の文面です。
収三第一一五八号
安蘇郡葛生町大字葛生善増寺住職
永 井 泰 量
明治四十三年三月十一日付願私立学校設立之件認可す
明治四十三年三月十九日
栃 木 県 知 事 中 山 巳 代 蔵
学館が寺院を使用することも許可になっています。
収三第二九五号
安蘇郡葛生町大字葛生善増寺住職
永 井 泰 量
明治四十三年一月十日付願私立学校用として向5ヶ年寺院並に
境内使用之件許可す
明治四十三年三月九日
栃 木 県 知 事 中 山 巳 代 蔵
学館の設立は県に認められましたが、地元に学館開設を理解されるまでには、なお紆余曲折がありました。
明治40年に尋常小学校6年が義務化され、高等小学校の修業年限が2年と定められました。高等小学校には産業界とのつなぎ役として生徒の実務スキルを伸張するねらいがありましたが、高等科を履修することに果たして充分な魅力があったかどうか。明治23年に高等科を設置した葛生町立葛生尋常高等小学校は葛生学館の開設に猛反対でした。学館の開設が高等小学校と競合することが反対の直接の理由と考えられますが、学館創立を企てた創立者は26才でした。しかも葛生に着任して1年にも満たないいわゆるよそ者です。地元の排他意識が加わって寺には投石があり、学館開設に対する反対は激しいものでした。
学館は船出をしましたが舳先を襲う荒波は激しく、初年度に入学をみた生徒は僅かに5名です。翌年度の入学生も7名を数えるのみでした。栃木県によって学館の設立が認められた明くる年の明治44年になって葛生学館はようやく入学生20名を数えるに至りました。