1.開校


葛生高等学校は明治四十一年四月、葛生学館として開校しました。当初は四名の生徒でスタートしましたが、間もなくさらに一名が加わって開校初年度は五名の生徒が机を囲み、創立者永井泰量先生の謦咳に接しました。生徒が七名になり、学校の体裁が整うのは翌明治四十二年です。


 本校創立の頃は栃木県下全域で中学校の整備が進められていました。近くでは明治三十四年に栃木県第四中学校として創立した佐野中学校があり、明治四十年には佐野高等女学校が開校しています。私学では作新学院が明治十八年に創立され、明治三十三年には宇都宮短期大学付属高等学校が開校しました。


 永井泰量先生は岐阜県本巣郡蓆田村の出身です。先生は明治十五年三月二十日、厳父松尾忠七、母堂せむの弐男として生まれました。岐阜は織田、豊臣の戦国時代に戦乱にまみれた地です。戦いの惨状を身近にしたであろう地元には、祖先を弔う気持ちが強く、家々には家族の一人を僧籍に出家させる習わしがありました。泰量先生は習わしに従って十三才で出家し、井伊家の菩提寺、彦根の清涼寺に入りました。僧侶になるには厳しい修行があります。万巻の仏典を理解する資質がなければならず、加えて難事にあってたじろがない精神力が要求されます。泰量先生ならやり通すであろうと、厳父のめがねに適っての出家でした。清涼寺の住職が名を永井機外といいました。縁を得て泰量先生はここで松尾姓から永井姓になります。僧侶としての修行に励むかたわら、進取の気概に富む泰量先生は学問の要を痛感します。やがて上京して麻布中学校に入学し、ついで曹洞宗高等学校を経て、明治四十年に曹洞宗大学を卒業しました。曹洞宗大学は現在の駒沢大学の前身です。




 泰量先生の葛生着任は明治四十年七月十日です。曹洞宗管長令によって葛生町善増寺住職に就任しました。善増寺は梶原善増の創建に関わる由緒ある巨刹で、建立を室町時代にさかのぼりますが、住職に恵まれず寺は荒廃していました。後年、泰量先生が語ったところによると、本堂の屋根は雨漏りがし、庫裡には鍋釜一つとしてなく、三千五百円の借金だけが残されていたということです。弱冠二十五才の泰量先生は曹洞宗管長からその復興の重責を任されたのです。これより先、泰量先生は茨城県竜ヶ崎中学校に教諭として赴任していました。善増寺檀家総代から住職斡旋の要請を受けた曹洞宗管長は泰量先生を見込み、竜ヶ崎中学校に赴任して間もない先生を敢えて善増寺住職に推挙したのです。


 着任してみると葛生は岐阜と気風を異にしていました。先祖の霊を弔う念の厚い岐阜では、僧侶を敬い師と仰ぎますが、葛生での僧侶の地位は低いものでした。僧侶自身にも研鑽を積み、自ら地域のリーダーとしての役割を果たそうとする自覚が希薄だったようです。戦国時代以来、歴史の檜舞台を担ってきた岐阜の周辺には自ずから競争を是認する空気がみなぎり、多くの人材を輩出しましたが、比するに葛生の気質は停滞気味でした。本校創立六十周年記念誌に泰量先生は次のように当時を回想しています。「明治以前、この葛生地方は小さな大名、旗本の領地であった名残から、極めて独善的で、排他的であり、かつ、他力本願である。寄らば大樹の下と依頼心のみが強く、独立独行の精神に欠けている。」また、「葛生には大学出身者がいないばかりか、大学を志す者もいない」ありさまだったと地元の後進性を指摘し、教育に対する関心の低さを嘆いています。


 明治四十一年は日露戦争終結の三年後です。その頃、国内には世相の乱れが現れました。 小国と見られていた我が国が大国ロシアに勝利を収めたのです。もはや小国ではないという国力への過信は国民の謙虚さを麻痺させ、退廃的な気分を増長して世相の乱れを招きました。国外には排日運動が起こり、日米関係は悪化の方向をたどり始めていました。昭和の日本は戦後の廃墟から立ち直り、誰にも想像できなかったほど驚異の経済成長を達成して世界第二位の経済大国を謳歌しました。追いつけ追い越せと目標だったアメリカ経済と肩を並べるまでに成長して、日本は一時期もはやアメリカに学ぶものなしと豪語するまでになったのです。平成の日本は一転して経済の停滞にあえぎ、大国のひとつとして果たすべき国際貢献にとまどい、国際的な国の威信までを失墜させようとしています。いま、日本は未曾有の危機に直面しながら、一人ひとりが果たすべき役割を顧みず、公共心を失い、自己の利益追求にのみ奔走してはいないでしょうか。




 驕りを排し、退廃的な気風を戒め、よって立つべき精神的バックボーンを明示し、もって社会に役立つ青少年を育成せんとして本校は設立されました。本校100年の歴史は地方の一私学が時代の波に翻弄されながらも、創立の精神を発揚せんとした取り組みの記録です。一世紀を経て、本校創立の精神はいまふたたび高らかに宣揚されなければならない時期を迎えています。