日露戦争の戦勝に酔う人心の驕りを憂い、また排日運動を通じ対米関係が悪化していることを懸念して、これを誡める趣旨から明治四十一年十月に戊申詔書が発布されています。創立者永井泰量先生は戊申詔書が指摘する世相の乱れを憂慮し、青少年に健全な精神を喚起する目的をもって本校を創立しました。不透明な社会状況が創立者をして本校創立を発願せしめるベースの一つになっていると思われますので、戊申詔書を引用して当時の世相の一端を写します。
詔書 朕推うに、方今人文日に就(な)り、月に将(すす)み、東西相倚り彼此相済し、以てその福利を共にす。朕はここにますます国交を修め友義を惇うし、列国とともに永くその慶に頼(よ)らんことを期す。顧みるに日進の大勢に伴ない、文明の恵沢を共にせんとする、もとより内、国運の発展に須(ま)つ。戦後日なお浅く、庶政ますます更張を要す。宜しく上下(しょうか)心を一にし、忠実業に服し、勤倹産を治め、これ信、これ義、醇厚俗を成し、華を去り実に就き、荒怠相誡め、自彊息(や)まざるべし。
そもそも我が神聖なる祖宗の遺訓と、我が光輝ある国史の成跡とは、炳として日星のごとし。寔(まこと)によく恪守し、淬礪(さいれい)の誠を輸さば、国運発展の本近くここに在り。朕は方今の世局に処し、我が忠良なる臣民の協賛に倚藉して、維新の皇猷を恢弘し、祖宗の威徳を対揚せんことを庶幾(こいねが)う。爾(なんじ)臣民、それよく朕が旨を体せよ。
詔書は前段の後半で「お互いに協力しあって職務に服し、勤勉、倹約を旨として家計を整え、信義を重んじ、思いやりを持って軽薄な行動を慎み、表を飾らず中身を追求し、我が儘や怠け心を起こさず、常に努力し向上に励め」と説いています。「自彊息まざるべし」は「自彊不息」として明治から大正にかけて農政学の大家として令名の高かった横井時敬先生の筆になり、本校農業科の校舎に永く掲げられていました。横井先生には本校にご来校をいただき、生徒を前に講演もしていただいています。
時代背景に促される一方、旧態然とした地元の停滞的な気風もまた泰量先生を発憤させたと思います。眉をあげ、内に横溢する力を秘めた若者を育てたいという純粋な熱意が先生にはみなぎっていました。若干二十五歳を過ぎたばかりの青年が一大決心をもって学校設立に邁進します。その決意の深さは明治四十二年に起草された設立趣意書に伺われますし、学校設立にかける周到な準備は同じく明治四十二年付けで施行された私立葛生学館規則に現れています。
永井泰量先生は次の三点を主眼として本校を創立したと書いています。第一は青少年に普遍的、実用的知識を涵養して奢侈淫蕩に流れることを戒め、青少年に社会に役立つ気概を醸成すること。第二に、学を興して地域文化の向上を計り、もって人々に視野の拡大を促し、葛生町固有の独善的、排他的、消極的な考え方の改善に資すること。第三に、僧侶の自覚を喚起し、地域のリーダーとしての役割を担うに足る実力を養うとともに、僧侶の地位の向上に資することであります。
本校九十周年記念館二階の研修室には泰量先生の自筆になる「私立葛生学館設立趣意書」が当時のまま墨書で残っています。ここにその全文を記載します
私立葛生学館設立主意書
現今、社会に於ける風教は実に奢侈淫蕩に流れ、道義的観念は地を払い、彼の極端なる個人主義、利己主義、黄金万能の弊風は滔々乎として社会の隅み隅み迄
を風靡せんとし、一方にはまた彼の社会主義のあるありて、日一日と其の勢を増 加し来り、国家社会を其根底より改造せずんば止まざるの概を示せり。如斯思想
の唱導せられ、流通するは決して偶然の事、一朝一夕の事に非ずして大いに其の起因ありと雖も、之が感化を受け、之が渦中に投ぜらるる者は其の大多数者は我が建国の歴史、国家組織を充分に了解知得ざるに因る。迂生大いに茲に見る処ありて、地方青年子弟の為に特に此の弊風に陥るを矯め、普通的実際的の知識を授け、健全なる国民を養成し、之を小にしては町村自治の精神を了解発揮せしめ、
之を大にしては国家社会の一員として実用的人材を養成せん事を欲し、茲に本館を設立せんとす。
翻って、吾人仏教徒現今の状況を見るに果たして如何。思うだに冷汗の背を湿おす者あり。彼等は徒に無為徒食、何等国家に貢献する処なく、袖手傍観、世を
毒するの遊冶郎と何等選ぶ処なし。果たして国家の一員として生存し得るの価値 を有するや否やを疑わしむ。豈生等仏徒の一員として慨嘆せざるを得んや。茲に於いてか生等、一は地方僧侶に覚醒を与え、一つは国家の一員として又仏徒とし
て、多少にても国家を益し、町村を利せん事を思いて、此の挙を企図せり。如斯を以て世の所謂営利的、商業的の企図と其の選を異にし、献身的に慈善的に斯業
を大成せんとす。之れ本館設立の主旨根本義なり。
明治四十貳年参月貳拾日 右設立者 永 井 泰 量