7.葛生学館開校の時期を探る

本校は開校にあたってその発足を祝うセレモニーはありませんでした。寺が校舎でしたから、校舎の建設もありませんでした。開校の時期を特定できるようなイベントは行われなかったのです。ところが、記録を紐解きますと、開校の時期は明治40年とも、41年とも、あるいは明治42年とも読めるのです。
 本校創立50周年記念誌に葛生学館第1回卒業生小曽戸浜吉氏が一文を寄稿し、開校当時の様子を紹介しています。それによると、小曽戸氏は生徒募集の締め切り期限を過ぎてから寺を訪ね、応募を申し出たようです。締め切り期限を大分過ぎていましたから、募集に間に合うかどうか心配しながらの応募でしたが、その実、小曽戸氏が最初の応募者でした。その後の生徒の入学状況を小曽戸氏は次のように書いています。7,8日経って中田吾一君が入学し、また幾日が過ぎて森沢、川田君が入学した。それから内田修禅君が入った。
 本校は創立者個人の意思によって設立された私学であって、学制に基づき地方自治体等によって設立された公立校ではありません。協力者を募り、設立資金の裏付けをもって設置された私立校でもありません。中学校の設立がようやく始まったばかりの時期に、協力者も相談相手もなく全くの1人の手によって開かれた学びの場です。創立者の意識には勉学の機会に恵まれない地方の青年に、自らが学んだ知識と、世に処するに如何にあるべきかその方途を伝えたい思いが漲っていたと思います。
 設立認可を申請し、認可を待って生徒募集をしたのではなく、恐らく生徒を募り授業を開始しながら、同時に学校の設置を文教機関に働きかけたと思います。設立認可を申請したのは寺の施設を寺院本来の事業以外に利用することの許可を得ることと、経費捻出の都合からでしょう。事実、2年の修業では中学校卒業の認定は叶わず、生徒は卒業しても無資格であることを承知の上で葛生学館に通いました。本校が文部省認可の中学校になるのは大正15年に葛生農商学校になってからです。


 

泰量先生の善増寺赴任は明治40年です。寺院の記録に泰量先生が8月4日から住職執務を始めたと記載があり、8月20日に初葬儀を執り行っています。駒澤大学に照会したところ、成績一覧表綴りの表紙に日付の記載があり、泰量先生が明治40年7月卒業と記録されていると回答がありました。泰量先生は善増寺赴任前に茨城県竜ヶ崎中学校教諭に就かれています。竜ヶ崎中学校教諭は明治40年4月付けの就任です。その後、曹洞宗管長令によって泰量先生は善増寺住職になりました。本校創立50年記念誌に曹洞宗管長令の発令は明治40年7月10日と載っています。竜ヶ崎中学校在任は半年に満たない期間でした。
 本校資料室に開校当初からの入学御願が保管されています。初年度の入学御願としては5氏のものが残っています。入学御願の申請期日は小曽戸浜吉氏が明治42年4月1日、内田修禅氏も明治42年4月1日、中田吾一氏が明治42年4月20日、森沢小佐次氏は明治42年4月16日とあり、小曽戸氏が入学したという川田耕作氏の入学御願はなく、初年度入学として他に大川憲道氏のものが保管されており、その日付は明治42年4月5日です。明治42年には3月20日に設立趣意書が起草され、4月10日付けで葛生学館規則が制定されています。
 葛生学館設立趣意書に泰量先生は意中を吐露し、青年が利己主義にならないように、またいたずらに風評に惑わされないように、世のために何をなすべきかを自ら判断できる基礎を培いたいと書いています。さらに、健全な青年を養うために献身的に慈善的に業を成し遂げたいと熱っぽく訴えています。小曽戸氏が回想するところによりますと、最初の入学生である小曽戸氏は翌日から泰量先生の教授を受けます。おそらく寺の庫裏が教室でした。「まぁ上がれ。今日から勉強を始める。教科は中等国、漢、数、修身、英語である。まだ教科書がないから、僕のもので勉強する」といって教え始めたと書いています。
 永井泰量先生の葛生への赴任は明治40年ですから、明治40年を開校の年とするのは無理があります。泰量先生が小曽戸氏を相手に授業を開始したのは明治41年であったと思います。青年への働きかけを当初は献身的な慈善的な努めとしてスタートし、授業料の徴収などをまともに考えなかったのではないでしょうか。事業を事実上スタートさせ、成り行きを見ながら創立者は事業認可の申請に奔走したと思います。2年で修業する学校の設置を管轄官庁はなかなか認めようとしなかったと創立者は嘆いています。管轄官庁を説得するのに、吉田松陰の松下村塾の例を持ち出すなどあらぬ限りの横車を並べ、足を棒にして折衝したと創立者は回想しています。認可を得るのにある程度の期間を要したことは想像に難くありません。
 学則の制定や入学御願の整備は折衝過程での管轄官庁の指導に基づいて作成されたものと考えられます。併せて設立趣意書を起草して、学校開設にかける決意を訴えました。葛生学館規則の制定は明治42年4月10日ですから、管轄官庁との折衝は明治41年のことです。明治41年に寺に生徒を集めて寺子屋スタイルの授業を始める傍ら、管轄官庁と折衝を行ったと思います。明治42年に規則を制定し、生徒に入学御願を提出させて学校の形を整えたのは、管轄官庁の指導に基づくものと考えられます。創立者の意図や生徒の応募の様子などを考え合わせますと、創立者が事前に学校創立準備を整え、2年修業の学校設置を管轄官庁に断った上で、明治42年になって生徒募集を始めたようには思えないのです。
 昭和62年秋、本校は創立80周年に因んで記念誌を編集し、卒業生名簿を発行しました。建学80周年記念誌編集委員会が検討の末、本校の創立を明治41年としましたのは上記の経過を踏まえた結果です。即ち、明治40年の本校創立はなく、明治42年に葛生学館規則を作成し、入学御願等文書上の形式を整えました。創立者が生徒を募り、寺を開放して事実上の指導を開始したのは明治41年のことです。
 葛生学館第14回卒業生が記念冊子「我らの母校」を発行しました。大正13年3月の発行です。その第1項に葛生学館沿革概要が載っています。「本校が呱々の声を挙げたるは、実に今に去る拾有七年前、明治戌申の年四月上浣なりき」と記載され、本校の開校を明治41年と書きとめています。