前校長永井成雄先生はたくさんの講演を残しました。講演の一部を「随所作主」としてまとめ、創立90周年記念の冊子として在校生や生徒の出身中学校に贈りました。冊子には永井成雄先生のものの見方が直裁に述べられていて、教えられるところが多かったとたくさん感想が寄せられました。
講演録の最初は「どこもく地蔵」です。「どこもく」とは人間の世界はどこに行っても苦労がつきまといますという意味です。「どこもく地蔵」は鎌倉の瑞泉寺に祀られています。瑞泉寺は1,300年頃、夢窓国師によって開かれた臨済宗の寺です。由来記があってどこもく地蔵を次のように紹介しています。
『昔むかし、このお地蔵様が扇ヶ谷の辻におられた頃、お仕えしていた堂守が貧しい生活に耐えかねて、逃げ出すことを考えるようになりました。八幡宮正覚院のお坊様にその意味をうかがうと、「苦しいのはどこも同じ、ひとつところで辛抱ができなければ逃げるだけの人生ということじゃ」と諭され、心を改めた堂守はお守りを続けたという話です。こうした由来で、このお地蔵様は「どこも地蔵」「どこもく地蔵」と呼ばれています。』
どこもく地蔵を例えに成雄先生は「幸せは辛抱の中から生まれる。」と、辛抱の大切さを生徒に説いたのです。辛抱が大切であるもう1つの例えに、成雄先生は講演の中で創立当初の創立者の苦労を話題にしました。
本校の開校は上級学校に行きたくても行けない児童に学びの機会を提供しましたが、必ずしも地元が賛同する順風満帆のスタートではありませんでした。葛生尋常高等小学校は既に高等科の課程を設置していましたので、本校の開校は高等科の課程と競合します。加えて葛生の地は他地域と人との交流が少なく、家系の古い家柄が多いことから町には排他的な気風がありました。本校を創立したとき、創立者は26歳です。特待生として大学を卒業したインテリとはいえ、その地位にある葛生の人たちの目には、創立者はよそから来た若輩に過ぎなかったと思います。当時の葛生小学校長が本校の開校に反対し、これを妨害しました。小学校長の云うことは生徒や保護者にとって絶対です。反対に同調する人が山門前に待機して、入学しようとする児童に圧力を加えたようです。寺に投げ石まであったといいます。
監督官庁に2年課程の中等学校設置を申請しますがなかなか認可にはなりません。地元には開校を反対する妨害があります。利潤や名誉を追求しようとするのではなく、世相を憂い、社会に役立つ人材を育むことを純粋に希求した創立者にとって、吹き付ける逆風は予想外の障害であったと思います。寺は寺で、今に換算すると億に近い莫大な借金が残されていました。思いあまった創立者は母親に手紙を送ります。「寺は借財だらけであり、学校は思うようにならない。くたびれた。もう家に帰りたい。」
母親の返事には現金が添えられていて、文面はどこもく地蔵と同じでした。「早く借財を返して頑張りなさい。学校には夢があります。苦しみを乗り越えて信ずる夢を実現しなさい。他所に移っても、また別の苦労に出あいます。」
数は多くありませんが、創立者を支える方がいました。背の高い仙人のような吉澤兵左さん、八坂神社神宮の宮田功雄さん、町長の清水耕作さんです。3人は寺を訪ねては創立者と碁を打ちました。碁盤に向かいながら創立者は東京に戻りたいと愚痴をこぼしたようです。3人はこれからだと慰めます。滅入る気持ちを抑え、3人の励ましによって創立者はもう少し、もう少しと頑張り続けることができました。善増寺本堂に額に入った感謝状が掲げられています。創立者から檀家総代の吉澤両家と片柳家に対する感謝状です。学校が創立60周年を迎えたとき、檀家総代の善意に支えられて今日を迎えることができたと感謝を込めて贈られたものです。感謝状は親身の励ましが創立者の大きな支えであったことを示すとともに、葛生に歩をしるした当時に創立者が味わった苦労は並大抵ではなかったことを物語っていると思います。
永井成雄先生の幼い頃、方丈の間に丸く畳の焼けた跡が残されていたようです。火鉢をひっくり返してできた畳の焼け跡だったといいます。成雄先生は兄弟が多かったので、母親は家計のやりくりに大わらわでした。その頃、たまたま母親が買った富くじが1等に当たりました。今の金額で数十万円の金額です。母親は子どもたちになにか食べさせられると喜びました。ところが創立者がそれを全部使ってしまったのです。先生方の給料にしてしまいました。子どもたちにと考えていましたから、母親は怒って創立者に苦情をぶつけました。火鉢が倒れ、灰神楽が立ちます。畳は大きく焼けました。焼け跡はしばらくそのままになっていたようです。
創立者は生涯をかけて学校基盤の確立を図り、人間味溢れる人材、社会に役立つ人材の育成に取り組みました。創立者永井泰量先生は自ら夢見た生涯を生き、僅かの蓄えと、未来に夢を託した学校を残しました。